大淀祇園祭について(R3年)中止


 2021年(令和3年)の大淀祇園祭も、コロナウイルス感染防止の為、残念ながら中止です。
 昨年は、祇園祭がない風景を写真に収め、ブロブとしましたが、今年も同じ風景を写真に収めても仕方ないので、昨年改定する前の大淀祇園祭のページをここに残したいと思います。
       

写真提供:明和町観光協会(H14)

文章について:1987年に作られた文章だと思います。
(ブルーの文章)
 R3年の大淀祇園祭りは、7/24(土曜日)です。
 今年(R2年)の大淀祇園祭りは、コロナウイルスの影響で中止です。
  大淀祇園祭について

  ここは大淀の業平松よ
   浦は大海で船がつく
  いたら見てこい大淀の浦を
   エンヤエンヤと網を引く


 これは、明和町の大淀(おおよど:地元では"おいず"と呼ぶ)
の祇園ぱやしの一節である。笛や太鼓で威勢のいい大淀祇園祭が、
ことしは八月一日に行います。
    (注意:毎年異なります。)
祇園祭は、全国に疫病が流行した貞観十一年(八六九)に祠司(しし宮司の一種)
・卜部日良麻呂が勅を奉じて、六月七日に長さ二丈の鉾(ほこ)を作り、六月十四日に神輿とともに京都・神泉苑に送ったのがその起源だと伝えられています。

 大淀の祇園祭は江戸中期、いまから二百年ほど前に、疫病を払い氏子安全、農・漁業の発展を折る民間信仰から始められ、京都の八坂神社、愛知の津島神社の流れをくむものだと言われています。

 祭りには、前夜東区の宵宮があり当日は三世古と山大淀の山車(だし)が区円を練り歩く。
三世古の山車は、午後五時頃に大淀港の満潮時に合わせて幟、堤灯で飾られた二隻の船に乗せられ、海上渡ぎょの儀式を行ないます。それと同時に、港の空高く仕掛花火が大音響とともにさく烈、クライマックスを迎えます。

 続いて、数百発の打上げ花火と六基の仕掛花火が水面を色どり、夜空を焦がす。仕掛花火は地元で"花火委員"と呼ぱれる人たちが、長年伝えられる大淀独特の秘伝つな火(導火線により看火)を騒使して見物客をうならせます。

 見物広場には、露天の店が並ぴ、アセチレンガスの匂いが雑踏に漂い・昔ながらの祭り・の風情をかもしだします。

 夏の一夜ぜひ一度お越し下さい。
(近鉄山田線明野駅下車、駅前から三重交通バス山大淀下車)

大淀の地名について

大淀の地名の起りは、昔倭姫命(やまとひめのみこと)がこの地の海を渡られるとき、大いに淀んでいたから、この地に大淀社(おおよどやしろ)をお定めになりました。それが地名となっておおよどと呼ぱれるようになりました。

 江戸時代中ごろから、おおよどを訛って、おいずと呼ぶようになりました。
 伊勢物語や古い和歌にはおおよどとでていますが、日常にはおいずという呼名がよく使われています。

 斎王が禊をなされた所は尾野湊(おののみなと)といわれていますが、これは大淀の海でありました。
  
    大淀祭典委員
 (注釈1)

尚、祠と禊のしめすへんには、礼のしめすへんで書かれていました。 

注釈1:私は、大淀祭典委員では、ありません。


以下の写真は、叔父さんがH14年頃に撮った写真です。(16/03/07) 祇園祭り02