大淀祇園祭

概要

 R4年の大淀祇園祭りは、7/30(土曜日)に規模を縮小して開催されました。。
 花火は、3年連続で、開催されませんでした。来年は、どうなることか判りませんが、静かな祇園祭でも、良いと考えています。
 来年従来通りの大淀祇園祭を開催するとなると、大変だと思いますし、事故等が起こる可能性もありますので、このページは、再来年のR6年までこのままにしたいと思います。
 伝統を引き継ぐのは、重要と思いますが、大淀祇園祭が、縮小して行くのは時代(少子化)の流れではないだろうか?
 ご先祖の勘四郎さんが、大淀祇園祭に、関わっていたと思ってこのページを作りましたが、大淀祇園祭の行く末を静かに見守るのが私の努めではないか?
 R5年の大淀祇園祭は、7/29(土曜日)です。「更新情報・お知らせ」に、大淀の祇園祭 三世古(H30年 Video)のリンクを張りましたので一度見てください。スマフォでは、「更新情報・お知らせ」の+をクリックしてください。>>リンクが現れます。
 R6年の大淀祇園祭は、8/3(土曜日)でした。(本当に271回目?)

大淀祇園祭

 祇園祭り02
写真:自宅の庭からの1枚(H29年)

文章について:1987年に作られた文章だと思います。
(ブルーの文章)
  大淀祇園祭について
  ここは大淀の業平松よ
   浦は大海で船がつく
  いたら見てこい大淀の浦を
   エンヤエンヤと網を引く

これは、明和町の大淀(おおよど:地元では"おいず"と呼ぶ)
の祇園ぱやしの一節である。笛や太鼓で威勢のいい大淀祇園祭が、
ことしは八月一日に行います。
    (注意:毎年異なります。)
祇園祭は、全国に疫病が流行した貞観十一年(八六九)に祠司(しし宮司の一種)
・卜部日良麻呂が勅を奉じて、六月七日に長さ二丈の鉾(ほこ)を作り、六月十四日に神輿とともに京都・神泉苑に送ったのがその起源だと伝えられています。
 大淀の祇園祭は江戸中期、いまから二百年ほど前に、疫病を払い氏子安全、農・漁業の発展を折る民間信仰から始められ、京都の八坂神社、愛知の津島神社の流れをくむものだと言われています。
 祭りには、前夜東区の宵宮があり当日は三世古と山大淀の山車(だし)が区円を練り歩く。
三世古の山車は、午後五時頃に大淀港の満潮時に合わせて幟、堤灯で飾られた二隻の船に乗せられ、海上渡ぎょの儀式を行ないます。それと同時に、港の空高く仕掛花火が大音響とともにさく烈、クライマックスを迎えます。
 続いて、数百発の打上げ花火と六基の仕掛花火が水面を色どり、夜空を焦がす。仕掛花火は地元で"花火委員"と呼ぱれる人たちが、長年伝えられる大淀独特の秘伝つな火(導火線により看火)を騒使して見物客をうならせます。
 見物広場には、露天の店が並ぴ、アセチレンガスの匂いが雑踏に漂い・昔ながらの祭り・の風情をかもしだします。
 夏の一夜ぜひ一度お越し下さい。
(近鉄山田線明野駅下車、駅前から三重交通バス山大淀下車)
大淀の地名について
大淀の地名の起りは、昔倭姫命(やまとひめのみこと)がこの地の海を渡られるとき、大いに淀んでいたから、この地に大淀社(おおよどやしろ)をお定めになりました。それが地名となっておおよどと呼ぱれるようになりました。
 江戸時代中ごろから、おおよどを訛って、おいずと呼ぶようになりました。
 伊勢物語や古い和歌にはおおよどとでていますが、日常にはおいずという呼名がよく使われています。
 斎王が禊をなされた所は尾野湊(おののみなと)といわれていますが、これは大淀の海でありました。
  
    大淀祭典委員
 (注釈1)

尚、祠と禊のしめすへんには、礼のしめすへんで書かれていました。 
注釈1:私は、大淀祭典委員では、ありません。


以下の写真は、叔父さんがH14年頃に撮った写真です。(16/03/07) 祇園祭り02

更新情報・お知らせ

2020/05/19
大淀祇園祭フォームを新しくした。
2023/07/20
三重県多気郡明和町 大淀の祇園祭 三世古(H30年 Video)